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「東京には何でもあるけど何にもない」-憧れの場所で夢を叶えた“超歌手”・大森靖子さんの上京物語に迫る

           

今回インタビューさせていただいた大森靖子さん1

大学進学をきっかけに上京後、都内で音楽活動を始め、2014年・27歳でメジャーデビューした“超歌手”・大森靖子さん。
デビューするまでの間、生まれ育った愛媛県に帰らずに東京で夢を諦めなかった理由は?その生活を支えた東京という街にはどのようなストーリーがあったのか?
大森さんのアーティスト活動の背景にある“街”のお話を中心に、大森さんの上京物語について伺いました。

ずっと成長し続けるための材料が愛媛にはなかった
自分に合った生き方ができないと思っていました

――まず、大森さんが生まれ育った愛媛県から上京しようと思った理由を教えていただけますか?

松山市って意外に都会だし、何でも揃うんですよ。今はないけど当時はラフォーレもあったし、コンビニだって東京と変わらないくらい近くにあるし。必要なものはすぐ揃う“地方都市”っていう感じの街で、別に不便とかでもなくて。
でも、言い方を変えると“のんき”というか、ずっと成長し続けるための材料が愛媛にはないなと思ったんですね。自分に合った生き方ができない。
当時は歌をやろうとは思ってなかったんですけど、なんとなく自分が歌を作ったりするのは愛媛にいたらできないなって思ってたし。一番やりたいことは音楽だったんですけど、「なんかやりたい!」っていう気持ちのほうが大きくて。でも音楽への憧れが強すぎて、理想も高かったから最初の一歩が踏み出せなくて…それでCDのジャケットのデザインとか、モノを作ることで音楽に関わっていければいいなと思って美大(武蔵野美術大学)へ進むことにしました。
あと、愛媛の人ってみんなめちゃくちゃ優しいんですよ。逆にそこで自分が疎外感を感じた時に“こんなに優しい人の中で、こんなに便利な街の中で生きていけない自分”ってよっぽどひどいんじゃないかって思って(笑)。“自分はヤバい奴なんじゃないか”って思い込んでて、愛媛では生きていけないなって思ってましたね。

今回インタビューさせていただいた大森靖子さん2

――実際東京に出て来られて、自分の思い描いていた東京のイメージとギャップはありましたか?

当時は松山の方が都会だったなって思いました(笑)。
まずコンビニまで歩いて10分ぐらいかかるし、空気綺麗すぎて家から富士山見えるし(笑)。
東京にすごく憧れて出てきたのに、東京の西の方は富士山見えるんだって結構引いちゃって…(笑)。新宿とかには1時間くらいかかるし、“終わった”って思いました。
あと、音楽にしても芸術にしても志の強い人が来てるって思ってたのに、結構そうでもないぞっていうのに気が付いちゃって。もともと東京の美術の予備校から来てる人って、わりと軽い気持ちで来てたりするんです。予備校の先生がめっちゃ優秀だから、デッサンが上手くなって(大学に)入れるんですよ。
だから、そんなに美術に対する欲求みたいなものがなくても、なんとなく絵が好きだよねっていう人が大学に入ってきて、普通にアトリエで音出してポケモンされたりして発狂しそうになっちゃいました(笑)。何しに来てるの?このモチーフと向き合う私の時間なんなんだろう?とか。今考えると周りが見えてないなって思うんですけど、結構それが衝撃でした。

――最初はデザインで音楽に関わりたいと思っていた大森さんが、歌手活動を本格化させていった理由は何ですか?

自分で絵を描いて個展をしてみたんですよ。作品をある程度溜めて、会場を借りて、誰かと一緒にやるなら連絡を取って…とかいろいろ準備するのが大変っていうのもあるんですけど、絵を描いて自分から生まれる瞬間から人に見てもらうまでのタイムラグがめっちゃあるんです。その時はもうライブ活動も始めていて、自分から出てくるものを歌ってすぐ人に聴いてもらえるライブは表現の方法としてめちゃめちゃ速いな!って思ったんですね。
単純に朝と夜で食べたいものも違うし、昨日好きだった人が今日好きとは限らないじゃないですか。もう変わっちゃってるけど、ちょっと前のやつだけど…とか言い訳っぽく絵を飾っちゃってる自分が嫌だったんです。でもライブは今の気持ちで表現すればいいから、歌詞がちょっと違ったとしても“今”の思いで、“今”の表現の仕方で伝えられるから、その即興性にすごいハマっちゃって、こっちのほうが好き!って(笑)。
デザインの部分の挫折でいうと、デザインって人が求めるものとか、人が分かりやすいものとか、オファーをくれた人がこういうものが作りたい!っていうものが作れないとダメじゃないですか。私の作品を聴いてもらってる人なら分かると思うんですけど、どう考えてもそれに合わせて作れる器用な人間ではないなって…絵に対しては特に。細密描写がすごく好きだったんですけど、そんな細密描写求められるデザインないじゃないですか(笑)。だから難しそうだな、って思ってました。

――ライブや歌うことのほうが向いていたんですね。

はい。“今”を表現するのが単純に楽しかったんだと思います。

――ライブ活動を始めた経緯を教えていただけますか?

気軽にってわけじゃないですけど、東京にはちょっと低い段を上がるだけでステージに上がれるっていう場所もあるんですよ。ステージとお客さんの段がない、高さが変わらないライブハウスとかもあったりとかして、“そっち側”の人間にならずとも自分がライブをやれる場所がたくさんあるので、それをお客さんとして観に行った時に気軽に歌わせてもらう…っていうところから始まりました。人が足りないから歌ってみなよ、とか君も歌えるでしょ?みたいな場が結構あったんです。

――ライブ活動をする中で大森さんが歌手として生きていこうと意識し始めたのはいつ頃ですか?

大学卒業がきっかけですね。最初、歌手活動をやっていく上で大学卒業は自分の中での親孝行というか。大学は卒業してほしい、っていう親だったので卒業まではしてあげないと!みたいな気持ちがあったんですよ。
でも、周りの音楽を志してる人はみんな一人暮らしをしていて、音楽に全振りの人生ができる環境で、音楽だけで食ってますっていう人じゃなくてもバイトのシフトを音楽活動に合わせてズラしたりとか、当時の私には自分でお金を稼いでる姿がすごく立派に見えたんです。
自分には大学っていう、ある意味“後ろ盾”があることによって甘えてるんじゃないかとか、ここに行ってる限りは成功しないなっていう変な気持ちや嫉妬みたいなものもあったし(笑)。音楽だけやってるほうがカッコいいなとか、貧乏してるのも羨ましく思っちゃってたんですよ。それで、わざと貧乏ぶって生活したり(笑)。別にお金があったわけじゃないんですけど、仕送りとか家賃は出してもらってたので、死にはしないじゃないですか。そういう変な憧れがあったので、大学を卒業した時は「よし!やったぁー!」ってすごく思いました。
でも、そのタイミングがちょうど震災だったんです。音楽の界隈でも自粛モードが漂ってたんですけど、自粛も何も自分がその時いた音楽の界隈って客1人、2人とかで、この人に対して自粛したところで…っていう根本論があるのにみんなが自粛って言ってて。しかも引き語りなんで、そんなに電気も使わないし。表現の自粛とか、よく分かんなくなっちゃったんですよ。
みんな結構気が滅入ってた時に大学を卒業して、初めて仕事をするぞ!ってなった時に、何があっても変わらないぐらいいつもやり尽くし続けて、そういうことがあっても変わらない生活をしていくことがすごく大事なんじゃないかって思って。そんな時にギターを教えてくれた友人が亡くなってしまったり、いろいろ考えて「売れなきゃ」っていう気持ちになったタイミングだったんです。

今回インタビューさせていただいた大森靖子さん3

高円寺ってほんとに楽なんですよ。
誰も何も取り繕わなくて、誰も何も執着してない

――その時に主に活動されてたライブハウスはどこですか?

高円寺の「無力無善寺」っていうところです。

――大森さんは上京当時、大学の近く(小平市)に住まれていたんですよね。少し距離があると思うのですが、高円寺のライブハウスに通うようになったきっかけはありますか?

自分の好きな銀杏BOYZの峯田さんとか、オーケンとか、そういう人たちが高円寺を語ってるのに憧れて、まず高円寺に行かなきゃ!って思ってたんです。
行ったら、まぁ楽じゃないですか。高円寺っていう街って、ほんとに楽なんですよ。誰も何も取り繕わなくて、誰も何も執着してない、みたいな場所。当時はその辺の道でダラダラしてたら人に刺されるって思い込んでたので(笑)。自分は醜いから人に殺される、っていうよく分かんない理論を持って歩いてたけど、高円寺ならそれはない。ここならありのままの自分でいられるんだ!安全だ!っていう気持ちがあって、すごい好きでした。

――他に通っていた街や好きな街はありますか?

当時住んでいた東大和市駅は西武新宿線だったので、新宿までのアクセスがいいっていう理由で、新宿をよく歩き回ってました。いろんな喫茶店を巡ってましたね。
あと野球をすごい見たくなって、西武球場に通ってました。おじいちゃんが甲子園が好きだったので、夏休みにおじいちゃん家に行った時におじいちゃんが見てる甲子園をぼーっと見てたんですよ。あの感じを味わいたいなと思って。それで自然と西武を応援するようになりました(笑)。でも大体は高円寺にいましたね。

今回インタビューさせていただいた大森靖子さん4

東京には何でもありすぎる。
だからこそ、自分から行動しなきゃ何も得られない

――夢を叶えるためには、自分のいる場所や環境も大切だと思います。大森さんにとって「東京」はどんな街ですか?

東京って何でもあるじゃないですか。自分がこれ欲しい!って思ったものを得られるような場所なのかなって。でも、これ!って思ったものを自分から掴みに行かないと何にも得られない感じはあると思います。何でもあるから何にもない、みたいな。何でもあるけど自分から行動しなきゃ何にもないから、最初それで落ち込んじゃって。すごい閉じちゃったんですよ。それで、1ヶ月寝ないでいてみようとか、遺跡を発掘しようとか、そういう方向に走っちゃいました。でも遺跡を発掘するバイトとかそんなに手軽に見つかるものじゃないんですよ(笑)。

――歌手活動を始めてからメジャーデビューされるまでの下積み時代が長い印象がありますが、それでも愛媛に帰らずに東京で頑張れた理由は何ですか?

下積み時代は「下積みしてる」っていう実感はないんですよ。これは下積み時代だからいつか越えたい、とかじゃなくて、ただどんどん面白いことを学んでみたりとか、もっと良い曲が書けるようになりたいな、とか良いライブできるようになりたいなって思って生活していただけなので、今“下積んでる”っていう感覚じゃなかったんですよ。あと、実家があんまり好きじゃなかったっていうのが大きいと思います(笑)。
みんな優しいし、親とかも自分のこと思ってるのは分かるけど、それでも苦手な空気とかあったし、やっぱり早く出たくてしょうがなかった。当時は愛媛を出れて、楽しく音楽ができてハッピー!しか思ってなかったです。

――楽しいことや好きなことを突き詰めていったら結果的に夢を叶えていた、ということでしょうか。

そうだと思います。でも活動中に“売れたい”とか“早くここから出なきゃ”とかは考えるようになってました。小学校の時とかはあと何年で中学に行けるって思ってたし、中高の時はあと何年、あと何年…よっしゃ愛媛出れるぞ!とか、“ずっとここから出たい”っていう気持ちで生きてたんで、その時も早く高円寺から出なきゃって(笑)。高円寺気持ちいいけど、ここにずっといたら人生終わる、みたいに思ってました。自分で行く場所を選んだのに(笑)。

――ずっとこのまま居心地のいいところにいたら、上にはいけないっていう思いがあったんですね。

そうだと思います。賃貸って大体2年契約じゃないですか。だから、めっちゃちょうど良くて(笑)。2年くらいで引っ越して次の街にいけるっていうのが、自分的に気持ちよかったです。大学の時は大学の近くに住んでたので4年一緒ですけど、その後は更新の度に近場で引っ越してました。高円寺から中野に引っ越したり(笑)。

今回インタビューさせていただいた大森靖子さん5

想像力は無限
人に“絶望”と言われていることを全部悲観的に思う必要はない

――色々な夢や思いを持って上京してくる人たちが多いと思いますが、最後にその人たちに向けてメッセージをお願いします。

高校時代とかって「世界=学校」と思ってしまっている人って多いと思うんですよ。学校で自分が認められなかったら“世界”に否定された、っていう気持ちになってしまうとか。今の時代でいえば、「インターネットで否定されたら死にたくなる」みたいな感じだと思うんですけど、実際には“世界”って無数にあるんですよね。みんなが“世界”って思ってるものって、“世界”じゃなくて“界隈”なんですよ。“界隈”のことを“世界”って思っているのは大いに間違ってると思うんです。
界隈って無限にあって、しかも1個にしかいちゃいけないなんてないんです。100個の界隈に小指の爪ぐらいずつ参加してるぐらいでも構わないし、別に毎回足を運んで顔出せってことでもない。例えば、「アニメも見て、アニメも好きだけど主題歌で〇〇ちゃんにハマって音楽もちょっと好きです」でも2個の界隈ゲットしてるじゃないですか。それを好きだよ、って言うだけで居場所ができたりして、そうやって居場所っていっぱい作っていけばいい。その「居場所みたいなのが無数に存在するのが“世界”」っていうものだと思っています。

例えば、“この街ってこういう人が多いよね”って、結構東京ではありますよね。自分の現状に満足できなくて「今ここから抜け出したい!」って思ってる人も、そういうのを調べてみて「自分はこの街合ってるのかな」とか「いつかはこの街に住もう」って思えたら、それが東京で生活する上での希望になったりするかもしれないし。

――なるほど。東京には“界隈”がたくさん存在しているということでしょうか。選択肢はたくさんありますもんね。

そうですね。物件も色々あるし、予算が5,6万だったらこのくらいになるとか、選べなくても楽しいじゃないですか。世間では「お金がない=絶望」みたいに言われるけど、お金がなくて不自由でも、安くて自分に合った物件が見つかって「俺は別に事故物件でも気にしないぜ!」っていうのがゾワゾワする!楽しい!とか。絶望って、別に悲しいとは限らないと思います。だから、人に“絶望”と言われていることを全部悲観的に思う必要はないと思うんですね。わりとどこにでも楽しむ余地はあるし、想像力って無限だから。その能力を高めていくと、東京でも、東京じゃなくても自分の満足のいく生活が送れると思います。

最後に、大森靖子さんご本人に“上京当時の自分”に向けて手紙を書いていただきました。

迷うことなくスラスラと書いてくださった大森さん。
左下の“ナナちゃん”にも注目です!

今回インタビューさせていただいた大森靖子さん7

あなただけの“上京物語”をはじめよう

大学進学、就職、長年の夢を追いかけて―上京する理由は人それぞれ。
初めて行く場所、初めて会う人、初めて感じる空気。
東京には何でもあるけど、自分から行動しないと何も得られない。
歌手デビューという大きな夢を叶え、現在は多くの人々に夢を与え続けている大森さんの言葉には、夢を叶えるために頑張る全ての人たちへの力強いメッセージが込められていました。
“無限の想像力”があれば、きっと絶望さえも希望に変えられるはず。
さぁ、あなたも憧れの場所で一歩を踏み出してみませんか?

今回インタビューさせていただいた大森靖子さん8

大森靖子(おおもり・せいこ)

1987年9月18日、愛媛県出身。学生時代に弾き語りを始め、ライブハウスでの音楽活動で注目を浴び、2014年にエイベックスからメジャーデビュー。2019年から2020年デビュー5周年を迎え「ハンドメイドミラクル5」と題し、5つのアニバーサリー企画を遂行。道重さゆみとコラボしたシングル「絶対彼女 feat. 道重さゆみ」や、峯田和伸(銀杏BOYZ)と題してコラボしたシングル「Re: Re: Love 大森靖子feat.峯田和伸」をリリース。「超歌手大森靖子2019 47都道府県TOUR”ハンドメイドシンガイア”」と題した全国ツアーを開催し、2020年2月12日に初のベストアルバム『大森靖子』をリリースした。更に「SEIKO OOMORI UGLY DREAM TOUR 2020」と題し5月〜7月と全国ツアーが決定している。

Twitter:@oomoriseiko
Instagram:omorimori
HP:https://oomoriseiko.info/


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